[智叔的話]
驚聞廖啟智因病離世,我亦想起2013年曾因港視失落免費電視牌照相約他作了一次訪問,刊於《明報》星期日生活副刊,再收錄於《文字欲》一書裡。訪問引起無線電視管理層關注,表示會檢討藝人福利。而這次訪問後,亦幸運地獲得智叔及其太太敏兒的回饋。
智叔言簡意賅地表示「訪問寫得很好」;而敏兒亦同意,文章把智叔的真性情表現了出來。雖然文章之中,智叔是個深沉內歛的人,但他每句說話,都是聆聽了我的問題,再深思之後才說出來的,用字謹慎,樸實無華。隨着自己年歲漸長,才愈來愈懂得欣賞智叔的厚實和智慧,特此把文章與讀者分享。
***
死水翻不了波濤——專訪廖啟智 (2013年10月20日)
廖啟智記得TVB 對他的恩情,一九七九年藝員訓練班畢業後,不久就獲派電視劇《上海灘》重點角色,九十年代《歡樂滿東華》不乏他的亡命表演,最經典要數「穿高跟鞋踩鋼線」和「用喉嚨頂纓槍推郁小貨車」。九十年代中工作量更創紀錄,有一陣子,平均天天在公仔箱曝光半小時,連年「爆騷」讓他有條件養妻活兒。太太陳敏兒是訓練班青梅竹馬同學。智叔有今日,不能不歸功於TVB。
性格上,智叔為人低調,甚少在娛樂版投訴抱怨,更多是默默耕耘。大眾記得,早些年幼子文諾因血癌病逝,兩夫婦靠宗教力量互相扶持,好爸爸形象深入民心。在觀眾心裏,智叔就像他拍的外傭廣告一早已和我們「融入家中」 。
然而,今次訪問,第一次接觸真人,才發現智叔內斂深沉,有點dark。不笑的時候,他那淺灰色眼珠望着你,嘴巴半張,像個洞悉世情的智者,又像個哀傷悲劇人物。導演爾冬陞 說過,智叔眼神「凶狠非常」,筆者見證,裏面像個深海,時而波平如鏡,時而翻起暗湧。
筆者問一個問題,他思考良久,最長一次想了一分鐘,他不是迴避你,而是不願信口開河,在一分鐘裏,他瞇着眼,頭傾側,吃力從深處挖出最精準用字。千呼萬喚始出來的答案,缺少了「無綫」「政府」等主體語,但批評依然扔地有聲。有時他會說寓言故事,聽得人模稜兩可,但只要連同那豐富的形體演譯和千變萬化的眼神,你會明白他說什麼。
在這個脈絡裏,你知道,當他要批評自己前僱主,嘉許一個新玩家,智叔的話,句句肺腑。離開無綫多年,去年替王維基 拍了一套劇,在新工作模式下,讓他重拾了久違的拍劇樂趣。今天,看到這個讓藝人有基本尊嚴,肯提升製作水平的老闆不獲發牌 ,智叔極度失望:「這次不發牌,是我演藝生涯的一件大事。我幾十年沒有享受過工作,現在有機會享受,忽然沒有了,還不大件事?」他更形容,現在發兩個牌,沒大幅改變電視生態:「一潭死水要加入活水才有生機,現在是在潭死水裏,加了兩滴水,泛起了兩個漣漪」。
發牌被阻,有人激憤得今天要上街 。智叔不肯透露他會否參加,但哀莫大於心死:「一字咁淺(嘅發牌道理)都要上街,我寧可唔要(個牌)。」更實際的做法,智叔說,大家「唔好睇」某大台才是力量所在。
然而更令人心寒的,是一種集體絕望。王維基說香港公義已死 ,智叔說得更深入:「香港沒有公義?從來都沒有,只是以前它(當權者)會給你一個希望,𧨾你說有希望的,傻啦,有(希望)的,現在是連希望也要幻滅你……」說到這裏,智叔在筆者眼前耍了兩下魔法,尤如一個欺哄人的小丑,然後忽然變臉,放空眼神,以poker face木訥地說:「現實就係,無!」在昏黃的初秋夜,一陣無情風颳起,把樹葉紙張吹得亂作一團,筆者打了個冷震,眼前恍惚看到扼殺香港創意工業的死神。
***
「壟斷」出現客觀現象
廖啟智出名謙虛。筆者致電邀約訪問,請他這位TVB老臣子又拍過王維基劇集的資深藝人,評一評發牌事件。智叔最初說:「我看法未必夠全面」,記者情急解釋,他才安慰:「我只是說自己經歷未必代表全面,但也願意跟你談。」到了約會時間,現於浸會大學教演戲的他下課後趕來,遲到五分鐘不忘道歉。記者上前跟他握手,他有點生硬,你可以感到一種害羞和慢熱,但骨子裏有一種誠懇。
入行三十多年,智叔是個「TVB傳奇」,自小在基層家庭長大,因親戚在大東電報局 工作,家裏得以用便宜價安裝「麗的映聲」 ,在粵語長片 裏看到童星馮寶寶,啟蒙他要做演員。中學畢業後,兩次投考無綫藝員訓練班才入圍。智叔常說,做人要有自知之明,知道自己不「高大靚仔」,但多年來在電視及電影機會不絕,兩次獲得金像獎 最佳男配角。
智叔說,自己愛穩定,而無綫「樹大好遮蔭」,收入又不錯,一直沒動機外闖:「熟了制度,工作模式掌握到,人的自省能力會減低,(大台)沒競爭,偶然隔籬(亞視)咬一啖,我哋就醒一醒神,當隔籬台無嘢咬,我哋就繼續,叫對得住份人工。」智叔承認,演員也不敢進取:「要求太多,跟整個氣氛不夾。」
智叔認為,不理無綫認不認,「壟斷」已經出現:「像賽跑一樣,跑道上只得我一個跑,「沒人跟到我,我為何發力?」所以,無論它是否承認壟斷,客觀現象是出現了。」
智叔在TVB服務二十五年,至二○○五年離開。他強調,和舊公司關係不錯,亦感激對方給予的工作機會。然而,外界一直報道他離巢主要為家庭(其幼子二○○三年患病),但今日智叔透露,當初離開,和舊公司管理手法也有關。
智叔形容,最初TVB 成立,藝人大都是簽同一種合約:固定薪金,每月包十個「show」(一個show是半小時節目,即每月曝光五小時)。至九十年代中,合約種類變多,知名度低藝人出現不合理待遇:如只簽一個show 卻被合約綁死一年,亦有藝人因出show 不足,在下一期合約被追討:「有人覺得這些條款匪夷所思,或不合乎合約精神,但亦有人說:你可以不簽,但藝人有選擇嗎?」
智叔發現,公司氣氛有所改變:「以前覺得公司好溫暖,大家一齊打拼,而家(公司)建立了,開始同你計數,「不要跟我講感情」,甚至同事傾約,管理層說話和態度已經「公事公辦」,甚至出現「尖銳挑釁性字眼」,這個變化,令我向心力不強。」智叔形容,同事在負面情緒下工作,促使他於二○○五年離開。
部頭拍劇綁死兩年
離巢兩年,一位相熟監製邀請他回TVB拍劇,以「部頭」 形式接了一套劇,簽約前卻發現條文無理:一套只拍兩個月的劇,竟要綁死兩年,期間不可於其他免費電視台工作。智叔說,對方解釋「這是制度」「這是規定」,並不是針對他。智叔憤憤不平,「唔係嘛?我拍兩個月咋,拍完不就是拍完了嗎?」但也無奈接受,因為更悲哀是,爭取了自由身也沒用,事關另一個免費台亞視近乎沒製作,但智叔依然有氣:「我感受是不好的」。
智叔表面有點酷,卻掩蓋不住一個演員的高度敏感,訪問裏多次提及「感受」。他分析,無綫沒實質競爭,故此沒動機維持員工士氣,但叫他惋惜是,一個以人為本的創意工業,竟悄悄流失了「人味」,說到這裏,他聲線柔軟,但字字清晰:「最初入TVB一切都是新的,可以說不成熟,但很人性。當它成熟到一個階段,變成脫離了人味,它變成不需要顧及感受,但人往往需要一種感受。」
電視台沒「人性」可以去到幾盡?大台為了提升生產力,白天外景,晚間廠景,同一班演員早上六時開工,凌晨三時收工,每天只剩數小時回家冲涼睡眠,但人不是機器:「觀眾可以看到,畫面裏的演員好唔夠瞓,狀態跟劇情應有的不一樣」。藝人拍劇期間想有社交,想有正常生活,是一種「奢望」。
去年夏天,廖啟智參與王維基新公司的《警界線》製作,飾演一個亦正亦邪的卧底。電視界老臣子如他,像劉姥姥入了大觀園,首先是技術上的創新:全實景拍攝,兩部攝影機同步運作:「這些條件是「革命性」的,過往幾十年香港電視製作,沒人會想過用這些方法,是一種「奢望」。」
更可貴是,資深演員如廖啟智,數十年來首次覺得,「原來工作可以如此享受」。他形容,以前拍劇是在「精神體力極度壓縮」,現在是「有空間給演員入戲」:以前二十集拍兩個月,現在拍半年;以前每日工作十九小時,現在縮減至十二小時,當然,老闆給演員的支票大張了,花在製作的開支上升了:「除了頭幾年入行,慢慢已沒有享受過拍劇,這一次才有番。」怪不得,有人形容無綫叫「舊世界」,王維基開拓了「新世界」。
聽到這裏,筆者感到一陣悲涼,香港演員多年委曲求全,過着比「碼頭工人」更剝削的生活,還有人拿着「自由市場」作藉口,指藝人「自願」被剝削;亦有藝人把這種舊秩序「內化」,揚言感謝大台霸權,才能練就一口流利普通話回應其他電視台訪問。
筆者大學主修心理學,記得一個經典實驗,科學家把狗放在大箱裏,箱子一邊通電,只要狗躍過中間欄柵跳到另一邊,就可以免卻被電刺痛,研究發現,狗會不斷跳躍,即使氣來氣喘,心理依然健康。但若欄柵另一邊也是通電的,意味牠如何努力跳躍,一樣會被懲罰。最恐怖是,有一天,欄柵另一邊不再通電,狗也放棄再跳,只會伏在地上任電流刺痛。簡單說,這隻狗「認命了」。科學家說,人亦一樣,長時間發現努力白費,會產生一種後天養成的自我放棄心態(learned helplessness) ,現在政府的做法,如同關掉了創意工業工作者等待多年後的最後一扇逃生門,把業內最後一線生機也要滅絕。
人味流失希望幻滅
智叔像個智者,一矢中的點出今次事件最令人擔心的事實: 「希望的幻滅」。他承接了王維基所說,香港沒有了公義,卻更透徹地分析,公義或許從來也許沒有,但至少當權者會願意假裝,欺哄我們「有的有的,這世界有希望的」,但今次決定,如同把香港人僅有的希望也要消滅: 「現實就是,無」。
請智叔分析,事件對香港整體社會的啟示。他像老僧入定,苦苦思索,良久才語帶相關地指,這次發牌決策,也反一種「無人味」的管治思維: 「這次結果是,它不需要理會你的感受。」筆者追問,「它」是當權者?智叔沒否認,只慎重地重複:「它不會理會你感受囉。」
慎言的智叔,沒有落力稱許王維基,只是陳述客觀事實:在王維基治下,創作團隊過着較有尊嚴的生活,製作水平提升,藝人有空間可鑽研演技,觀眾多一個選擇。這不過是一個健康的自由市場裏應有的生態,六天之前,政府無情扼殺。智叔回憶,周二晚聽到港視失落牌照,愕然非常:「我腦海裏諗,唔係嘛!」
對於政府不發牌的理據,連兩屆金像獎最佳男配角廖啟智也看不明白蘇錦樑局長 的戲碼。智叔幽默地道:「我真係理解不了,什麼叫一籃子(因素)?個籃幾大,裝什麼也不知道,我怎樣理解?我只是知道,(牌照)沒有。」
最大力量: 關電視
智叔說,不想猜度背後原因,說愈想愈令人難過。自稱懦弱的他說,感到扭轉事態機會渺茫,今天會否上街,他形容自己「思考中」,更有點絕望地說:「一字咁淺嘅嘢,(政府)都做唔到,如果下下要上街才可得到,我寧願不要,你可以說我消極,但消極也是一種抗爭。」他反而認為,關電視是一種可行方法:「既然,大家看到這個現象,就用選擇權去選擇,我覺得最大的力量是「唔睇」……觀眾要醒覺,有些習性我們不一定要堅持。」
兩個新牌電盈和有線 ,不會主攻電視劇,坊間認為,未能改變一台獨大,智叔以寓言故事,形容電視行多年如「死水」,今次選擇性發牌,死水也翻不了波濤:「水唔郁係死水,有嘢郁才是活水,你看死水裏沒可能有太大生機,活水才能養生,生命才可以延續。現在(發兩個牌)只能說是在一潭死水裏,加咗兩滴水,產生了兩個漣漪。」
一場革命需要勇氣
訪問在戶外,由黃昏一直進行到入夜,一陣陣秋風吹來,加上智叔的悲觀看法,令人絕望。我哀問智叔,香港人如何還有希望?智叔忽然小人物上身,推說自己沒責任令香港人有希望。大家靜了片刻,他又於心不忍心,引述港視同事收到噩耗後,發給他的短訊,內容是:「這是一場革命,革命不一定成功;一定成功的革命,便不需要勇氣。」智叔解讀,若大家把這件事看成革命,就知道革命會失敗,會流血,有犧牲,雖然過程難受,但至少「勇於去革命的人,才可貴。」
不少演員擔心得罪「舊有秩序」。智叔笑言,近年已轉向以電影為主,亦已過了「無嘢做唔得」的階段,故不太擔心。這次和王維基以「部頭」形式合作,不獲發牌他最傷心的是作品沒法重見天日。問他是否被大台列入黑名單,智叔笑着問:「我怎知道?但在公開場合,它(無綫)不會訪問你。」
對於香港電視觀眾,智叔有什麼說話要說?這個擅長演譯深沉角色的實力派,還是勸勉大家要內觀,要自省,戒掉對一間電視台的情感依賴:「其實人是需要有感情依附,一路慢慢成長,我們要學會不帶感情,或至少設個界限,做觀眾也是。觀眾好想有感情寄託,奈何有時所託非人,我哋都要有所取捨。」訪問完畢,我們客氣地道別,他一轉身,沿着昏黃的街燈漸行漸遠。我想起《無間道2》 ,智叔飾演的黑道人物,殺人之後,旁邊有人在埋屍,他在荒野裏用口琴吹起一首《Auld Lang Syne》。
***
[後記]
每一次訪問,都擴闊我的眼界.以前我以為,演藝人物在幕前口齒伶俐,幕後他們也應該口甜舌滑.訪問完智叔,令我大跌眼鏡.
我保留了當日訪問的錄音聲帶,教新聞採訪課時會播放節錄給同學聽.智叔在錄音中說話零碎、斷裂、主語欠奉,有時我問一個問題,接着是一片死寂,dead air數十秒,他才老鼠拉龜地回應.談話內容有時抽象,聽得人不明所以.學生聽到智叔的反應,忍不住苦笑,有時皺眉.
我會問同學:「廖啟智不想接受我訪問嗎?不是.」我的觀察是這樣的.從第一通我打給他的電話開始,他的每一個反應都顯示他願意做訪問,但他的開放程度有限,有意識去保護自己的私隱.例如他只把辦公室電話留給我,跟我碰面後握了一次手,握手的力度有一點僵硬(我在課堂上經常跟學生玩握手遊戲,請學生判斷不同力度握手表達了主人翁的甚麼性格).
遇到如此受訪者,採訪風格也要作出配合.由於智叔說話風格簡約,不少意思是由身體語言、語氣傳達,我大膽在文章裡做了一些詮譯和解讀.文章刊出後,有人認為我的書寫太過主觀.完稿後,雖然文章受歡迎,但我的心情仍然忐忑.直至幾天之後遇到一件事,才放下心頭大石.
話說港視不獲發牌後,員工連日在金鐘政府總部公民廣場留守,晚晚舉行集會,不少藝人出席,獨欠廖啟智.直至一個晚上,我在金鐘現場,赫然發現台上發言的正是廖啟智,我忍不住走近台邊.本來站在台上的叔智,在人群中看到我,緩緩地走到我面前,更彎下腰伸出右手,示意邀請我握手.我立即伸手回應,在數以百計的群眾面前,我們握了第二次的手.他一如以往簡約地說了幾個字:「篇文寫得好好」.那一刻,我的滿足感難以言喻.
之後,在台下遇到廖啟智太太陳敏兒.敏兒和她丈夫的性格相反,熱情親切,她捉着我的手,溫柔地說:「文章寫得好呀.」我忍不住說:「最初也擔心,把智叔寫得那麼悲觀會不好.」她答得有權威:「怎會呢?他就是這樣的一個人呀!」我放下心頭大石,跟她說,現在我在大學教學生做記者.她如同媽媽般叮囑我:「現在很多傳媒寫的東西都是假的,你記住,要教導學生,只寫真的東西.」我會好好記住,謝謝你,敏兒.
(照片:明報星期日生活副刊,明報攝影記者陳淑安)
同時也有3部Youtube影片,追蹤數超過76萬的網紅えっちゃんねる/悦子,也在其Youtube影片中提到,こんにちは!えっちゃんです♪ 今回は、教育ママにしたがってきた人生を終わらせたり ストーカーの女を撃退したら。。。 お母さんは、大事にしよう。 #意味怖 #怖い話 #ゲーム ▽えっちゃんのSNS Twitter:https://twitter.com/ecchan_bom2 Instagram...
無理意味 在 浜崎あゆみ(ayumi hamasaki) Facebook 八卦
仕事でも趣味でも友情でも愛情でも、いつも要になるのは価値観で。でもそれが全て同じならオールオーケーという意味ではなくて。
違うからこそ有り難く学べる事は勿論たくさんある。これは間違いない。
ただ、これだけは譲れないってのも当然あるわけで。
と言うよりむしろそれがなきゃ、譲れないもんがなきゃ、なんなんだよってなわけで。
そこを汚されるのだけはごめん、無理だわ。これは変わらないわ。
#LivingAsAnArtist #YouDoNotKnowAnything #IMakeMyDecision #IDoNotNeedYourPermissionHowILiveMyOwnLife
無理意味 在 王定宇 Facebook 八卦
台灣駐香港辦事處六人簽證今到期,港府日前發函要求須簽「一中承諾書」,否則限六月廿一日離港。
台灣駐港官員全員拒簽,七人昨天先行返台;陸委會砲轟港府「無理政治打壓」,並對中共提出嚴正警告與譴責。
香港、澳門用政治手段,除了受命中共或是向中共表忠之外,更有限縮港澳民眾與國際自由民主國家接觸的意味,而這種施加「一個中國」前提的做法,港澳也自證已經完全「一國一制」。
定宇建議,台灣應該慎重考慮依據「港澳關係條例」第60條,行政院報請總統,停止「港澳關係條例」一部分或全部之適用,特別是在資金審認、移民居留、科技輸出等,應該視為中國處理。
無理意味 在 えっちゃんねる/悦子 Youtube 的評價
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無理意味 在 まとめまとめの Youtube 的評價
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自分語りスマソ。
話の始めはスレ違いに
思えるかも知れないが
吐き出させてくれ。
10年前の春、私(♂)
夫婦と同居している私実両親のうち、
母が3年の闘病の末亡くなった。
俺様な父は自分の妻の
葬儀にも喪主を私にマル投げ、
面倒なことは全て私と妻が
やり終えた。
居なくなった母の家庭内での
役割を出来るだけ私達夫婦で
分担したつもりだが、
私には仕事もあるので、
夕飯時などは妻が家事を
一人でこなしていた。
父は止める母が居なくなった
のを良いことに朝昼晩と酒を
絶やさなくなった。
後から判ったことだが、
どうやらその頃から、
舅の嫁イビリが在った模様だ。
妻は、当時独立してまもなく
自営業を軌道に乗せようと
一生懸命になっていた私に
心配を掛けまいとしていたらしい…
母が春に亡くなり、その夏、
妻の身体に異変が起きた。
末期の癌であり、早くて
3ヶ月、もって半年だと言う。
長くなるので、分けて書きます。
余命宣告に目の前が真っ暗になった。
まだ子供は小学2年生、
それも少し前まで可愛がって
くれていた祖母を亡くした哀しみを
何とか乗り越えたところだと
言うのに…
当時サラリーマンから転進
して自営を始めて間もない私は、
勤め当時とは比較にならない
収入を上げられるところまで
頑張れたのも、
妻との未来を想定しての
ことだったのに…
若い妻の生きたい、と言う
力を信じて、手術が行われた。
切除した部位により、
もう息子は兄弟を持つ望みが
無くなった。
外科手術、その後の化学
療法、掛かる費用は尋常では
なくなっていた。
簡保などでは到底追いつく
はずも無く、
あれが勤めの頃なら、
経済的に破綻していたに違いない、
と確信できる。
一旦退院できるまでに
奇跡的に回復し、
定期的な通院による化学
療法を受けることとなった。
しかし、その副作用は当人
以外には想像出来ないほどの
ダメージを与えるものだった。
妻は、自慢の髪が殆ど抜けて
しまったとき、
さめざめと泣いた。
私は、ただ抱きしめて
あげるしか出来なかった。
自分は、もしかしたら、病気
以外の苦しみを更に与えて
しまっただけではないのか、
と。
しかし妻は、母親の大好きな息子に、
苦しむ姿を見せることが無かった。
それでも、化学療法は通院と言えど、
2週休んで2週入院、
と言う半入院生活。
病院に居るときには父が孫の
世話をする日が続いた。
それが後々、とんでもない
間違いだった、
と言うことになるのである。
一年後、1回目の手術で取り
きれなかった部位の切除の為、
2度目の手術を行った。
1回目に当てに出来た医療保険は、
2回目のときには何処にも
そっぽを向かれた。
全て自費、である。
高額医療費貸付制度なども
最大限利用して
日々の暮らしを頑張っては
見たものの、
目に見えるほどではないが、
ジリジリと財政が危なくなる
ような悪い予感がした。
2回目の手術を終え、
定期的な通院による化学
療法をひと段落終え、
自宅での生活が始まった。
息子は中学受験を目指す
ことを申告してきた。
母の病気を治す医者になる、
と。
思う存分書きな。
ありがとう。
もともとお手伝いさんが
居るほどの大きな家で幼少を
過ごした父は、
戦争で何もかも失って
孤児院に行くことを余儀なく
された人だった。
それゆえ父は、生来の
お坊ちゃんならではの我侭と、
戦争孤児により世を恨む虚無
主義とが混在している、
実に難しい老人になっていた。
そんな父に、妻が入院中、
息子が情緒を育まなくては
ならないときに、
父が孫に吹き込んだ思想、
「どんなときでも自分以外は
信用するな」
所詮この世は苦しいことだらけ、
と言う考え方は、後々息子の
思考パターンを支配してゆく
ことになる。
通院とはいえ、化学療法は
やはり患者自身にとっては辛い。
全身を襲う倦怠感、
それにより家事も侭ならぬ
ことが多くなってきた。
私も出来るだけ家事に関わり、
時間の許す限り手伝ったが、
生前の母のような世話が
息子の私に出来る訳も無く、
父は酔っては文句を言う
ようになって来た。
「もう退院してるんだから、
家事をちゃんとやって貰わんと困る」
癌が完治した訳でも無く、
病を抱えて、妻は気丈に頑張ったが、
ある日、亡き母に託されて
いたことを僕の居ない間の
夕食時に妻が父に言った
「お義父さん、お酒は
控えましょうね。
お義母さんにも言われて
いたのでお伝えしますよ」
そうすると父は逆上し、
「やっとブレーキが
亡くなって好きなだけ
飲めると思ったのに、
何でそんな事云うんじゃ!
お前の顔見取ったら酒が
不味くなるから、
二階に上がって貰ってエエ」
と。
そう云われたことがきっかけに、
妻は鬱になった。
2回の寝室に引きこもりがちになり、
笑顔が減った。
>そっぽを向かれた
人の命を粗末にしようとする
保険会社の名前を出してください
癌の治療についての保障はしない、
と言う名目でした。
何とか中学受験を突破した息子は、
誰よりも強いモチベーションがある、
と信じていた。
しかし、後にも述べるが、
優しい心の持ち主だった息子は、
ずるさを身に着けてしまった。
引きこもりがちになった妻に、
父の容赦ない言葉の暴力が
降りかかるようになった。
「何もせんのは、甘えて
いるだけと違うのか」
私は当然抗議した。
貴方は現状を理解できないのか、
と。
そうすると、
「ワシは不幸じゃの。
親にも捨てられ、
妻にも先立たれ、今度は
嫁にも見捨てられ、
嗚呼、この世は憎い、ワシは
この世で一番不幸じゃ」
こちらの話を聞こうともしないで、
自室に戻り、寝る。
そんな日々が続いた。
出来るだけ息子の目には
触れないように配慮したが、
父は、孫と二人のときに、
かなり刷り込んだらしい。
「ワシは父に捨てられたようなもの。
オマエの父親もそのうち
お前を見捨てるかも知れんぞ。
所詮この世で信じられるのは
自分だけ。
よく覚えておけ」
父は自分の手を汚すことを
是としない人で、
掃除、洗濯、調理買い物と、
家事の殆どを私がすることになった。
それでも妻の手をとって
一緒に父不在時の折には
居間で楽しい時間を演出する
ように心掛けていた。
どうやら、父には、「彼女」
と呼べる女性が外部に居る
ようである。
そうこうして数年が経った。
余命長くて半年、と言わ
れてから6年が経っていた。
私は、病院治療のほかに
出来ることは無いか、
と、
心もとない英語力を生かして
薬事法の所為で国内正規販売
できないハーブティーの個人
輸入をして
妻にそれを飲んでもらったりして、
この数年間は、
マーカー値も安定して、
今思えばまるで夢のようだった。
しかし、病魔はそれを許さず、
確実に進行していたのだった。
妻が亡くなって、もう2年半
経つのに、
まだジタバタしています。
それでも子供は大きくなって行き、
父は年老いて行きます。
毎日が進んでいくのです。
僕が凹みきって、歩みを
止めてしまえば、
全てが終わってしまう。
このおよそ900日弱で、
何が変わったといえるのか…
それは、逢いたい妻はもう居ない、
逢えない、ということ。
何とか子供が成人するまでは、
と、それが妻との約束だ、
と思って頑張っているつもり。
思い出して、くじけそうになり、
みっともないところを
吐き出してしまうかもしれませんが、
どうか許してください。
化学療法を5年続けた妻は、
疲れきっていた。
息子の成長だけが、妻の
気持ちを支えていた、
と言えた。
その5年の間に、何度も妻が訴えた。
「お願いだから、もう無理」
「このまま少しずつ弱って
いくだけなら、
今生きる意味は何が在るの?」
泣きながら訴える妻に、
僕はまるで壊れたおもちゃのように、
繰り返すしかなかった。
「それでも僕や子供にとっては、
世界で一番大切な存在なんだ。
子供にとっては、
今父親よりも、母親の方が
ずっとずっと必要なんだよ」
また時には、掛ける言葉も
なく、僕もただ泣きながら
抱きしめるしかなかった
ときも数多在った。
そんな状態でも、して
もらえないことに対する
不満が絶えず父から僕たち
夫婦に投げつけられた。
「今出来ないことがどうしてもある。
我慢して欲しい」
と言っても、
父は、
「それならワシは、お前らの
足手まといだと言うのだな。
消えて欲しいと思ってるんだな」
とすぐに極論に走る。
そんな折、妻の実家の母親
(義父は僕たちの結婚の
翌年に亡くなっていた)
の癌が発見された。
妻と同じ部位の罹患、
ストマとウロストミの装着と
相成ってしまった。
妻には兄が一人居るのだが、
そのアニも糖尿から網膜症、
失職して破産手続き、
生活保護の対象となっていた。
義母は義父の遺族年金で
何とか暮らしていけたが、
それでも足りないところは、
僕が補わなくてはならない。
今もそうだが、内憂外患、
満身創痍の状態だ、と認識するのに、
そう時間は掛からなかった。
経済的には、表向きは何とも
無いように振舞っていた。
特に子供には、財政が切迫
していることを悟られぬ
ように頑張った。
まだ僕の母が元気だった頃、
母の悲願であった「持ち家」
をもつこと、
そうすることで親孝行をしたい、
と思った僕は、
30歳になったばかりだったが、
勤めから独立をして、
25年のローンで土地を買い、
小さいながらも家を建てた。
そのローンだけでも月に8万強、
ボーナス時には40万弱の
支払いが毎年発生する。
事業を起こしたばかりの
初めの数年は、
それでも幸先良いスタートを
幸運にも切れたようなので、
息子を中高一貫校にも進学さ
せてやれたし、
母がずっと気にしていた
お墓も購入できた。
しかし、妻の治療には、
サラリーマンの平均
月収くらいの額が平気で
掛かってしまう。
前述のように保険が使えない。
国保の制度で一番安く
上げようとしても、
それでも10万以上のお金が
毎月治療費として出て行くことに。
それでも、自営業者になったのは、
妻の治療費を払う為だったんだ、
と自分を納得させながらの
日々が続いた。
ふと足を止めようものなら、
そのままヘナヘナとなって
しまいそうな自分を奮い立た
せることで精一杯だった。
気が付いたら、僕は糖尿に
なっていた。
因果関係もはっきりしないが、
EDにもなっていた。
若いときの交通事故で、
肝臓障害の残る僕は、
自分が医者に行くことも侭
ならなかった。
朝5時に起きて子供の弁当、
そして父と妻と息子の朝食を作り、
洗濯と買い物、身体が痛む
妻の身体をさすり、
入浴介助をし、部屋の掃除の
後、昼食を準備し、
昼食を取らせている間に夕食
準備をし、
その後仕事に出掛け帰ったら、
山のように積んである洗い物をし、
妻の様子を見、会話をして
自分が寝るのは
夜の2時を過ぎないことがなかった。
僕はそれでも、妻に
生きがいを持ち続けて欲しかった。
妻は通院治療を止めた。
僕はせめて、「フローエッセンス」
だけは飲んで欲しい」と頼んだ。
不味いハーブティーだが、
それはしぶしぶ承諾してくれた。
僕は毎日、それを煎じて
作り、毎日それを飲
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年末商戦で慌ただしい中、
10歳くらいの女の子が
玩具を持って来て
「千円足りないんですけど、
妹がどうしてもほしいそうなんです。
なんとか無理ですか?」
やさしく断ると、
「ちょっと待ってて下さい」
→数分後
「妹がどうしても欲しいって。
でもお金がry」
それはさっき聞いた。
仕方ないので、親は
一緒じゃないのかと尋ねたら、
「あ、おばあちゃんが……」
といいつつ又消える。
再び現れて
「ダメって言われたので、
ヒミツで買いたい。
でもお金がry、
でも妹がどうしry」
それは困ったねで苦笑いしてると、
また消えた。
ちなみにその妹は、姉が
消える度にレジカウンターに
玩具と共に置き去り。
姉がいなくなってからポツリと
「そんなに欲しいって言ってない」
と呟いてた。
この辺りで休憩シフトに入ったので、
一緒にレジ内にいた人に後を
任せたけど戻ってきた時には、
レジカウンターには何もなかった。
あの姉は、結局あきらめた
んだろうか?
だいたい、一,二万超えしてるものを
「千円足りない」なら、
まだ理解出来るけど
1575円のものを
「千円足りない」って言わ
れてもな。
> だいたい、一,二万超え
してるものを「千円足りない」なら、
まだ理解出来るけど
いやあ、それでもダメだろう。
値引きに応じるスタイルの
店ならともかく。
子供に
「無理を通せば得できる」
なんて思わせちゃイカンですよ。
いや、そういう意味でなく、
金額の一部の不足なのか半分
以上の不足なのか、
という意味では?
…釣られた?
さんのいう意味で書きました。
商品代金がとても高くて、
少し足りないだけなら
言いたい気持ちは分かるけど、
(それでも値引きはしないけど)
上記のケースでは
「足りない」違うだろと。
姉がいる時は口を挟まず、
消えてから
(2回目、3回目の時に)
「そんなに欲しry」と
言ってきた妹がちょっと
気の毒でした。
23日待ってたらお年玉で
買えるんじゃないかと、
思わず口に出そうになった。
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