ヤマハワークスマシン「0W」YZR500誕生からスクエア4・V4登場まで、進化の過程を追う
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重溫1991 GP500日本鈴鹿站~
1991年GP500揭幕戰-日本鈴鹿站,冠軍得者是史雲斯、亞軍杜漢、季軍雷尼,殿軍高辛斯基。戰車分別是SUZUKI RGV 500、HONDA NSR500及YAMAHA YZR500,全是二衝戰馬。而今季Motogp第二場阿根廷站將於今週末展開,奪得去年該站冠軍是羅絲。
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【MotoGP 】フレディースペンサー NSR500
MOTOGPを語る上でフレディ・スペンサーはなくてはならない存在であり、フレディ・スペンサーを語るにはNSR500を避けることはできない。
それほどフレディ・スペンサーはMOTOGP界の伝説とも言うべきライダーであり、数々の栄光を手にした実力とその美しいフォームにしびれるファンも多く、1988年に鈴鹿サーキットでNSR500による引退記念走行を行うまで多くの人を魅了し続けた。
ただし、伝説の中には栄光とは対照的に挫折を余儀なくされる逸話も残っている。
また、NSR500はフレディー・スペシャルとも呼ばれ、今でもMOTOGP500ccクラスを代表する常勝マシンとして多くのファンの記憶に残っているだろう。
フレディースペンサーの説明文はWikipediaを引用しております。
クリエイターコモンズ(再利用)にて許可がされておりますのでご承知おき下さい。
★フレデリック・"フレディ"・バーデッド・スペンサー(Frederick "Freddie" Burdette Spencer, 1961年12月20日 - )は、アメリカ合衆国ルイジアナ州出身の元モーターサイクル・レーシングライダー。1983年にはロードレース世界選手権(WGP)500ccクラスで、史上最年少チャンピオン、1985年には同じくWGPの500cc、250cc両クラスでシリーズチャンピオンを獲得した。
世界グランプリ・フル参戦
1982年、ホンダ・ワークスから世界GPへのフル参戦を開始。同年からホンダはNR500(4ストロークエンジン)に代え、2ストローク3気筒エンジン搭載の新型マシンNS500を実戦投入しており、スペンサーはこの車両を駆って同年のスペインGPで初のPPを獲得[1]し、ベルギーGPで世界グランプリ初勝利を遂げる[1]。その後も1勝を挙げ、ランキング3位を獲得する。
1983年にはヤマハのケニー・ロバーツと、年間12戦のうち6勝ずつ分け合う激しい戦いを展開。最終第12戦サンマリノGPではケニーが優勝して対戦成績を五分に戻したが、獲得ポイントはスペンサーが2ポイント上回っており、500ccクラスのチャンピオンを獲得することになった。この時点でスペンサーは21歳8ヶ月であり、2013年にマルク・マルケスに破られるまでロードレース世界選手権の最高峰クラスにおけるシーズン制覇の最年少記録であった[2]。
1984年からホンダはV型4気筒エンジン搭載のNSR500を投入したが、車両の独創的レイアウトの影響によるトラブルが多く、スペンサーはシーズン5勝をあげるもランキングは4位にとどまり、エディ・ローソン(ヤマハ)にシーズンタイトルを奪われた。ちなみにスペンサーはこの年、NSR500とNS500をコースによって使い分けていた。
1985年シーズンは前年の成績を挽回すべく、WGP500cc、250ccの両クラスにダブルエントリー。500ccクラスでは全12戦中11戦に出走し7勝をマーク。250ccクラスでは全12戦中10戦に出走しやはり7勝を収め、両クラスとも最終戦を待たずして年間チャンピオンを確定。'70年代以前には同一年に複数のタイトルを獲得する例も多く見られたが、世界GPにおける「Wタイトル」はこの年のスペンサーが現在までのところ最後の記録である。また、500ccと250ccのWタイトルは世界GP史上スペンサーのみである。なお90年代後半にダブルエントリーが認められなくなったため、この記録を破ることは現在不可能。
右手首故障
シーズンオフには肉体改造を試み翌1986年の開幕戦・スペインGPに登場。予選ではポールポジションを獲得し、決勝レースもスタートからトップを独走した。しかしスペンサーはレース中に右腕に故障を発症してピットインし、そのままリタイア[3]。以後のレースでもリタイアが多く、スペンサーはシーズン途中で戦線を離脱し、結局1986年は獲得ポイントなしであった。
1987年、復活をかけたデイトナのスーパーバイクレースにおいてVFR750を駆り予選最速タイムを叩きだすが、前走車の転倒に乗り上げてしまい転倒骨折、本戦には進めなかった。[4]世界GPの開幕戦・鈴鹿(日本GP)では予選初日の第1回目セッションを5周しただけで手首の状態が良くない事を理由にエントリーを取り消し。スペンサーがレースに戻ったのはシーズン中盤戦以降であった。ポイント獲得はスウェーデンGPでの7位完走・4ポイント獲得の1回のみであり、ランキングは500ccクラス20位であった。
1988年にはスペンサーに対するロスマンズのスポンサードが復活し世界GPにフル参戦する予定だったが、オーストラリアでの開幕前テスト走行でやはり右手首の腱鞘炎の痛みが消えていない事が確認され、3月16日に現役引退を発表。開幕戦・日本GPの会場である鈴鹿サーキットを、ゼッケン19をつけたロスマンズカラーの最新型NSR500で1周ゆっくりと手を振りながら引退記念走行を行った。
カムバック
約1年後、スペンサーは手首の手術を行った結果、状態はほぼ万全に近くなったとして引退を撤回。1989年にはジャコモ・アゴスチーニ率いるマールボロ・ヤマハチームに加入し、YZR500で世界GPに参戦した。しかし思わしい結果は出なかったため、シーズン途中でチームを去ることになった。帰国後には背中の手術もしている。1992年当時、フレディの腕の不調の原因は白蝋病、と言われていた[5]。
1990年のデイトナではVFR750Rでスポット参戦。翌1991年、1992年とAMAスーパーバイク全戦に参戦し1991年に1勝、1992年に1勝を挙げた。1992年のホンダの勝利は彼だけだった。
1992年には日本の鈴鹿8耐にミスタードーナツホンダRVFで参戦。最新ワークスマシンではなかったにもかかわらず予選3位と驚異的なタイムを記録、決勝は転倒を喫しながらも4位で完走した。その後、かつてのパートナーだったアーヴ・カネモトの協力で、南アフリカGPの数日後にキャラミでNSRをテストする機会を与えられ、ここでも好タイムをマークした。
1993年にはヤマハ・モーターフランスチームから世界GP500ccに参戦するも、やはり好結果を残すことは出来ず、同年をもって世界GPからは完全に引退した。
1995年にAMAスーパーバイクレースにドゥカティから参戦し、ラグナセカで優勝。1996年に二度目の引退を発表し、以降はレースへの参戦は無い。
近況では、アメリカのラスベガスでバイクのライディングスクールを経営していたが、世界不況の煽りを受け現在は休業している。2008年には鈴鹿8時間耐久レースの特別イベントとして、かつて1985年にWGPチャンピオンを取ったマシンNSR500でデモラン走行を行い8耐に来た観衆を大いに沸かせた。
フレディー・スペシャル
スペンサーが直接開発に携わった1984年〜1986年型NSR500は、当初ワークス系チーム内でもスペンサーにのみ与えられており、"フレディー・スペシャル"と呼ばれた。
なお、1986年シーズンはチームメイトのワイン・ガードナーもNSR500でレースに出走。以後はNSR500がワークスライダーとサテライトチームに供給されている。
特徴
バイクを長い手足(身長178cm)の下で自在に操り、コーナー終盤の立ち上がり加速を重視するライディング・スタイルが特徴とされる。ファーストラップから驚異的なタイムでライバルを引き離し、2位以下に大差をつけての独走優勝というレース展開が多かった。アメリカ国内で走っていた時代には既に、第1周回から圧倒的なラップタイムで他を引き離す走りで知られており、“ファスト(速い)・フレディー(Fast Freddie)”と呼ばれた。
スペンサーの走法は、キャンバーアングル(バンク角)の変化によるマシンの向き変えが異様に鋭く、ダートトラックレースの走法であるパワースライドを用いて両輪差を駆使し、定常円旋回している時間が極端に短いのが特徴だった。また他のライダーに比して高回転域まで使用することでも知られた。
1983年のフレディについて、おなじNS500を操るチームメイトだった片山敬済と片山のチーフ・メカニックを務めていた杉原真一は次のように語っている。「フレディの膝の動きはバランサーだ。別に路面がデコボコしているわけじゃないのによく動く、バランサーだな」(片山敬済)[6]。「フレディはわりとすべっても平気だよ。よく感知できないっていうか。エッ!! すべってたの、ってカンジだ」(杉原真一)[7]。また、片山は、フレディが自己流なライディングをしていると言われていることに対して、「フレディは、タイヤがすべっていることはよくわかっているよ。ちゃんとコントロールしているんだよね」(片山敬済)と話している[8]。
アメリカ時代から日本のアライヘルメットを愛用しており、レプリカモデルのヘルメットがファンの人気を集めた。このデザインは元々USホンダのオリジナルであったがスペンサーはそのヘルメットのまま世界GPに出場し有名になったため、スペンサーレプリカとして世に広まった。オリジナルは白地に頭頂部が赤、青ラインのトリコロールであるが1985年からの白地に頭頂部が紺、赤ラインのロスマンズカラー、1989年ヤマハ移籍時の白地に頭頂部が赤、黒ラインのマルボロカラーなどがある。2015年現在でも南海部品が最新モデルの帽体を同デザインに塗装したモデルを販売中である。
宗教上の理由から飲酒喫煙はせず、カフェインの摂取も忌避していたが、ドクターペッパーを愛飲していた[9]。全盛期となった1985年シーズンには、ヨーロッパ各国を巡る世界GP開催地に美しい婚約者サリー・ジョベール(1985年のミス・インターナショナルの準ミス)がずっと帯同していた(のち婚約解消)。
人物
フレディは敬虔なモルモン教徒である。1983年シーズン半ばにある雑誌のインタビューに次のように語っている。
「僕の走り自体は神にすべてコントロールされている。僕は神に守られているのだ。そこには恐怖心など何もない。ただ、ひたすら神を信じて走ればいいだけのことなのだ」(フレディ・スペンサー)
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動画クレジット
1985年日本GP最終戦 平 VS ワインガードナー
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MotoGPでのRC213Vの走りは、2013年からMotoGPに参戦したマルク・マルケスによって確固たるものになったが、マルクマルケスがMotoGPで表彰台に上る以前に、ペドロサらによってその実力は明かされていたようだ。
さらにホンダのMotoGP RC213V以前の歴史を振り返れば、2ストロークエンジンを搭載したNSR500にまでさかのぼって思い起こす必要があるだろう。
NSR500は、2ストローク500ccV型4気筒の競技用のバイクであり、甲高い2ストロークエンジン音を好むバイクファンも多いのではないか。
そしてホンダの技術力を結集したNSR500は、MotoGPRC213Vの時代への布石であり、MotoGPでのマルク・マルケスの活躍を予感させるものであったかもしれない。
NSR500(エヌエスアールごひゃく)は、ホンダ・レーシング(HRC)が開発した、2ストローク500ccV型4気筒エンジンを搭載した競技専用のオートバイである。
初代NSRで140ps、最終的には200psを超えるといわれるまでのパワーを500ccという排気量から発揮した。年々のパワーアップ競争で常にライバルのヤマハやスズキをリードしていたと言われるが、ライダーのコントロール能力を超えるほどのハイパワーは諸刃の剣となる。その課題解決策として1992年に投入されたビッグバン・エンジン(不等間隔位相同爆エンジン)[1]は、その後のGPマシン開発の方向性に大きな影響を与えたエポック・メイキングな技術であった。
1984年から2002年までの19シーズン、HRCからオートバイロードレース世界選手権(WGP)に投入された競技専用車両。NSRとは「New Sprint-racer of Research」の略称とされている。 HRC社内呼称は「NV0(ゼロ)」の後ろにアルファベット順で開発年の順に割り振られている(EやFはエンジン用パーツやフレーム用パーツと混同しやすいので飛ばしている)。例えば、初代NSR500である84年型は「NV0A」 85年型は「NV0B」 86年型は「NV0C」 87年型NSR500は「NV0D」 という具合に「通しアルファベット順」とも言える社内呼称となっている。 ただし例外はあり、89年型NSRはNV0Hだが、翌90年型NSR500は「90NV0H」となっている。 これは、毎年開発年度順に社内で予算が組まれるのだが89年型と90年型がひとつの予算枠で開発された経緯によるもの。 また「NV0O(オー)」も飛ばされているが、これは数字のゼロとアルファベットのオーが紛らわしいという理由である。
4気筒化でパワーのホンダへ
1983年当時、主力マシンであった2ストロークV型3気筒エンジンを搭載したホンダ・NS500は、小型・軽量・低重心を開発の主眼に置き、軽快な旋回性能とすばやい立ち上がり加速を武器に、エースライダーのフレディ・スペンサーを中心としてシーズンを戦っていた。各ラウンド全体を俯瞰してみると、低中速サーキットではマシン開発の目論見どおり、旋回および加速性能を存分に発揮し優勝を含む好成績を収めたが、舞台が高速サーキットやアップダウンの激しいサーキットに移ると、絶対馬力に勝るV型4気筒エンジン搭載のヤマハ・YZR500の後塵を拝する結果となっていた。
そこでホンダは1983年シーズン当初から、将来のグランプリを長いスパンで戦い抜ける性能をもつ新型マシンの開発に着手した。ライバルのYZR500と同等かそれ以上のハイパワー、かつNS500で得た軽量・低重心を兼ね備えたパッケージを持つニューマシン。それがNSR500プロジェクトのスタートであった。
レース戦績
1985 WGP 500(フレディ・スペンサー)
1987 WGP 500(ワイン・ガードナー)
1989 WGP 500(エディ・ローソン)
1994 WGP 500(マイケル・ドゥーハン)
1995 WGP 500(マイケル・ドゥーハン)
1996 WGP 500(マイケル・ドゥーハン)
1997 WGP 500(マイケル・ドゥーハン)
1998 WGP 500(マイケル・ドゥーハン)
1999 WGP 500(アレックス・クリビーレ)
2001 WGP 500(バレンティーノ・ロッシ)
主なライダー
フレディ・スペンサー
ワイン・ガードナー
エディ・ローソン
ニール・マッケンジー
マイケル・ドゥーハン
ピエールフランチェスコ・キリ
アレックス・クリビーレ
ルカ・カダローラ
マックス・ビアッジ
ダリル・ビーティー
アレックス・バロス
ロリス・カピロッシ
ロン・ハスラム
アルベルト・プーチ
カルロス・チェカ
ジョン・コシンスキー
バレンティーノ・ロッシ
八代俊二(NSR500の開発に貢献)
加藤大治郎
岡田忠之
伊藤真一(1991年度全日本選手権500ccクラスチャンピオン)
木下恵二(1986年度全日本選手権500ccクラスチャンピオン)
原田哲也
阿部典史(1993年度全日本選手権500ccクラスチャンピオン)
1984 - 1986年
約1年間の開発期間を経て登場した1984年モデルのTYPE-1は、非常に先進的なレイアウトにまとめ上げられていた。通常はエンジンの真上にある燃料タンクをエンジン下にマウントしているため、排気管をエンジンの上に通すという、独特なレイアウトを採用。重い燃料タンクを車体下部に置いて重心を下げ、燃料の減少による操縦性の変化を抑えようという狙いがあったようである(しかしながら、TYPE-1ではエンジン下の燃料タンク内に仕切り板を設けるなど前輪分布荷重を最後まで乱さない工夫をしていたが、それでもトランスアトランティックカップでのスペンサーの転倒でも判るように実際にはレース終盤になると前輪分布荷重が減り、相対的に後輪荷重が大きくなるという悪癖に悩まされ続けた)。 また、この特徴的なレイアウトによる熱害によるキャブレーション問題と異常なほどの整備性の悪さも重なった。具体的には燃焼ガスによって高温に熱せられる排気チャンバーが吸気を熱してしまうというものだった。 このキャブレーション問題をさらに詳しく言えば、ベルギーのスパ(第9戦)やオーストリアのザルツブルクリンク(第6戦)、ドイツのニュルブルクリンク(第5戦)などの標高の高いサーキットでは空気中の酸素濃度も薄くなるため熱害がさらに深刻になりプラグのカブりも酷くなって本来のパワーが出せないというものだった。 また、整備性の問題はもっと酷かった。 通常であればエンジン上部にある燃料タンクを取り外せばアクセスできるエンジン周りが、排気チャンバーを外さないと整備やセッティング変更ができないのである。 走行直後では、排気チャンバーは排気熱で非常に高温になっており、外すこと自体も困難だったため、キャブレターのジェット変更やプラグ交換、プラグの焼け具合のチェックにひとつにすら苦難が伴う)というメンテナンス性の低さ等々により、TYPE-1の独創的レイアウトは永く採用されなかった。 翌1985年型のTYPE-2以降は燃料タンクがエンジンの上に、そして排気チャンバーはエンジン下を通る一般的なレイアウトに変更された。 心臓部の2ストローク500ccエンジンは、1984年から1986年までシリンダー挟み角90度のV4エンジンで排気チャンバーは前方に伸びるレイアウトでキャブレターは後方2気筒の背後に位置しており、1987年型のTYPE-D以降2002年の最終型まで挟み角112度のV4エンジンで排気チャンバーは前2気筒が前方、後2気筒が後方に伸び、キャブレターはVバンク内に位置するレイアウトとなった。ともに1軸クランクシャフトを採用。当初90度の挟み角で向かい合うシリンダーの間にキャブレターをレイアウトする空間が取れず、後方2気筒の後ろにキャブレターを配置していた。このため後方2気筒の排気ポートを前方に向けて取り回すより他はなく、結果、排気チャンバーがエンジンの下側で複雑に絡み合う状態となっていた。
1992年には、それまでひたすらにハイパワーを追求して他社を引き離すという「馬力至上主義」ともいえる開発方針を転換。ライダーに扱いやすい過渡特性でエンジン出力をタイヤへ導くことに着目した、不等間隔位相同爆方式と呼ばれる技術を採用。この新エンジンは、通称ビッグバン・エンジンと呼ばれ、シーズン序盤から圧倒的な優位性を発揮した。有り余るハイパワーを確実に路面に伝えるため、エンジン出力の過渡特性を改善した技術はこのシーズンを席捲。エース・ドゥーハンは開幕から連勝を重ねることとなる。1990年頃からNSRの開発に発言権を持ち始めたマイケル・ドゥーハンの意見により、ライダーに扱いやすいエンジン特性が重要視され始めた。また、マシンのパッケージに大きな変化を与えず、前年モデルをじっくりと熟成させていく方針もドゥーハンによるところが大きかったといわれる。
1997年シーズンには、このビッグバン・エンジンの技術をベースに、かつての等間隔爆発に近い点火順序を与えたスクリーマー・エンジン仕様のNSRが登場。この新しい試みのエンジンにテストで好感触を得たドゥーハンは、ただひとりスクリーマー・タイプのエンジンを選択。1989年以来、等間隔爆発のハイパワーエンジンで戦った過去の経験が充分に活かされ、このシーズンはドゥーハン単独で12勝をマーク。僚友のアレックス・クリビーレと岡田忠之のビッグバン仕様での勝利も合わせ、コンストラクターとしてシーズン全勝の記録を残す圧倒的な強さを示した。以降1998年から2002年の最終型まで、スクリーマータイプのエンジンが標準仕様となった。
1999年のドゥーハン引退に伴い、開発の方向性を見失って一時期は低迷しかけるが、2001年の大幅な設計変更を受け、イタリアの新鋭バレンティーノ・ロッシがシーズン11勝を挙げチャンピオンを獲得し、再び圧倒的な速さと輝きを取り戻す。2002年、加藤大治郎により最後の活躍を果たし、次世代のニューマシン、4ストローク990ccV型5気筒エンジン搭載のRC-211Vへと主力の座を明け渡した。1983年
初年度から3勝を上げる活躍で開発コンセプトが間違っていなかったことを実証したNS500だが、1983年のタイトル獲得を目指して冬の間に更なる改良が加えられた[23]。改良にあたってはグランプリフル参戦1年目にしてすでにチームのエース格となっていたスペンサーの意見が多く取り入れられ、1983年型NS500は「フレディ・スペシャル」とも言えるマシンとなった[24]。その最も分かりやすい例がエンジンで、もっとパワーが欲しいというスペンサーの要求に応え、もともとパワーバンドが狭かったエンジンを更に高回転型の特性とすることで130psのピークパワーを絞り出し前年型から10ps以上のパワーアップを実現した[25]。その上で、市販車やモトクロッサーですでに実績のあった排気デバイスATAC(オートコントロールド・トルク・アンプリフィケーション・チャンバー)を装着することで低中速域でのトルクを補った[23]。また、とにかくエンジンを回せるだけ回すというスペンサーのライディングスタイルに合わせ、最大パワーを発揮する11,000rpmから更に2,000rpm回せるようにオーバーレブ特性を改良した。
車体関係に関しては外見は大きな変更は見られず、1982年型の正常進化とも言える細かな改良が加えられた。アルミフレームは形状や構成はほとんど変わらないものの中身は全面的に見直された[24]。コーナリング時のタイヤ接地面積の拡大を狙ってリアホイールは18インチから16インチとなり、フロントフォークのインナーチューブはカーボン素材となって更なる軽量化が図られた。
記事引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/ホンダ・NSR500
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